突然ですが、医療の「価値」とはいったいなんでしょうか?

あまりにも基本的な問いのようですが、その答えは決して簡単ではないらしい、というのが今回の記事のテーマです。

前回の記事では、世にいうCTの”乱用”をめぐる現場でのエピソードについてご紹介しました。

CTの例でいえば、そこに本来求められている医学的な価値は「診断」であり、「治療効果判定」です。しかしながら、前回ご紹介したようなエピソードを振り返ってみたとき、患者がCTに求めていた価値の核心には、もう少し別のものがあったように思われます。

目次

※この記事は、執筆者が研修医の時に作成した記事です。

医療のゴールは「寿命」と「QoL」だけ

マーケティングの発達した今日では、あらゆる業種において自社のサービスの「価値」がなんであるか、あるいはどんな「価値」を提供していくべきかが議論されます。

医療業界においては、こうした議論があまり活発になされてこなかったかもしれません。医療を一般的なサービス業と同様に扱ってよいものか、という問題もあります。しかしそれ以前に、我々医療者にとって医療の価値とはあまりにも自明であるように見えるのです。

少なくとも医学と医療が何を目指すべきかということについて、我々はシンプルで明確な答えを持っています。

“医療のゴールとしてもっとも重要視されるのは、

1.寿命の保持・延長(特に、若年期の死を予防することによる。)

2.QoLの維持・向上(特に苦痛の除去による)

の2点である。“

2001年にスウェーデンのヨーテボリ大学から出された”The goal of medicine”という声明です。今日ではこれが世界的なコンセンサスとなっています。

あまりにもシンプルですが、あらゆる医療行為の目的は本来このたった2つの点に集約されます。病院での検査や治療は、患者の寿命を延ばすためか、QoLを改善するために行われます。逆に言えば、そのどちらにも寄与しない検査や治療はいたずらに行うべきではないということです。

患者は意外なものを求めてやってくる

しかしながら、これらの「目的」は、必ずしも「価値」と同義ではありません。

提供者側が想定していたサービスの本質と、ユーザーが実際に享受している体験は往々にして食い違います。マーケティングの基本的な考え方です。ここで、医療を学問ではなくある種のサービス業としてとらえてみると、その「価値」と”The goal of medicine”の間にはかなりの隔たりがあることに気がつきます。

実際のところ、2つの目的のいずれとも無関係なニーズは無数にあります。

その極端な例が「クリニックが暇な高齢者の集会場になっている」という話です。日々暇を持て余した高齢者たちが、具合が悪いわけでもないのに、医師や友人に会うために頻回にクリニックを受診するというような話を聞いたことがあるかと思います。あまりにも頻回であるために日本の医療費膨張の一因になっているとか、医療サービスへのアクセシビリティの高さが生んだ弊害だとか、いろいろと言われています。

こうしたケースでは、患者は必ずしも医療行為そのものを求めているわけではありません。彼等の求めているものはむしろ、医師の顔を見ることでなんとなく得られる安心感だったり、場合によってはそこにあるコミュニティへの帰属意識であったりするわけです。

僕自身はクリニックで働いたことがないので、実際にそんなことがどのくらいあるのかわかりません。これについて調べた統計も見つかりませんでしたが、さすがにいくぶんか誇張されているとは思います。

ただし、医学的な必要性がない―つまり、クリニックを受診することが寿命の延長にもQoLの向上にもつながらないような―患者が、ちょっとした不安と無知から受診を繰り返すというケースには僕もよく出会います。

僕の勤務先は大病院ですが、救急の当直をしていると、本来なら医療行為を受ける必要のない患者さんは日々訪れます。前回のCTの例で紹介した親子も、大雑把にいえばそういう患者さんの一例です。

「血圧が高い」と救急に駆け込んできた中年女性

病院

こちらが想像もしなかったような需要に出会うこともあります。

夜中の3時、救急当直の仮眠室で寝ていると、院内PHSが鳴って叩き起こされました。Walk in(救急車ではなく、自分の足で来院した場合のこと)の患者さんが1人来てるのでお願いします、と看護師さんに電話で言われ、眠い目をこすりながら外来へ向かうと、待合のところに平然とした顔のおばさんが1人座っています。まさかこの元気そうなおばさんが急患ではなかろう、と思いながら通り過ぎて、診察室で看護師さんから問診票を受け取ると「どのような症状がありますか?」の欄に「血圧が高い」と書いてあって面食らいます。

救急とは急を要する患者を救うところです。夜中の3時に救急へ来ておいて、症状が「血圧が高い」の一言とは何事か。しかし来院してしまったものは仕方ないので、患者さんを診察室に呼び入れました。案の定さっきのおばさんが、やっぱり平然とした顔で入ってきます。

「さっき2時くらいに目が覚めたんですけど、そのとき血圧が高かったんですよ。普段より20くらい高いんです。不安だから念のため病院来ようと思って。大丈夫でしょうか?」

まず大丈夫でしょうとは思うものの、一時的な高血圧が重大な疾患を反映している場合がないわけではありません。一応いくつかの疾患の可能性を頭に浮かべてみます。しかし、そもそもどうして夜中の2時に血圧を測ってみようと思い立ったのかが理解できません。

「それはちょっと、トイレに行こうとして起きたときにくらっとしたので。今は全然、大丈夫です。病気じゃないとは思うんですけど、血圧が高いんですよ。血圧の薬もらえませんか」

どうやら本当に血圧のことだけを心配してここまで来たようです。しかしここは救急外来、緊急性のない患者に対して処方をすることはできません。また、もし本当に高血圧なら、循環器の専門医に診てもらってきちんとコントロールするほうがいいわけです。明日循環器内科にかかってくださいと説明します。

「そうですか。でも明日まで血圧高いままで大丈夫ですか」

血圧は重症疾患を反映して上がることはあっても、上がったこと自体が短期的な影響を及ぼすものではありません。さっきから血圧が高いからといって、明日の朝までに脳梗塞になるというようなものではありません。

患者の不安の内容に驚きながらもそう丁寧に説明すると、彼女はこちらが拍子抜けするほど安心して帰っていきました。

「不安」な患者には「安心感」がよく効く

病室

医学的にはまったく医療行為を必要としないにも関わらず、症状とは不釣合いな大きな不安を訴えて来院する患者たち。我々医療者にとってはとるに足らないケースですが、本人にとっては切実です。

多少の知識があれば、上記のような訴えが寿命やQoLにかかわらないことは明らかです。しかし患者自身は、はやく血圧を下げないと大変なことになるかもしれないという不安を、明確なニーズとして抱えているわけです。

あの時僕が彼女に提供した医療の「価値」とは、いったい何だったでしょうか?

5分程度の診察をして丁寧な説明をしたものの、医療行為と呼べるようなことは一切行っていません。寿命の延長にもQoLの向上にも、全く寄与していないはずです。しかしそれでも彼女が満足して帰ることができたのは、さっき測った血圧が高かったからといって、ただちに彼女の寿命が短くなるわけでも、QoLが脅かされるわけでもないことを知り、彼女の不安が払拭されたからに他なりません。彼女にとって医療の「価値」とは、まさにその安心感にあったのではないでしょうか。

そもそも病院を訪れる患者が、寿命だとかQoLのことを強く意識しているケースはさほど多くないように思われます。癌でもう治らない、手術もできないというような極端なケースを除けば、多くの患者は病気を治して元の生活に戻ることを想定して病院に来ています。 我々医療者がどう考えていようと、彼等にとっての「価値」とは、最終的に元の生活に戻れること、あるいは元の生活に戻れそうだという安心感にあるわけです

「安心」したいのは患者だけではない

もう一歩踏み込んでみましょう。

そもそも「価値」を享受しているのが患者本人だけとは限りません。医療サービスの「価値」の核心が安心感にあるとしたら、それを享受しているのはいったい誰でしょうか?

サービスの直接の購買者と、そのサービスの価値を享受するユーザーがいつも同じとは限りません。これもマーケティングの基本的な考え方です。

先の例で言えば、彼女が安心感を得て帰ったことによって、同じく安心感を得ることができた人がいるはずです。言うまでもなくそれは彼女の夫や子供たちであり、友人たちです。

同じく救急外来でよく経験するケースで、こういうものもあります。

患者は高齢の男性。診察室に呼び入れてみると、けろりとした顔で入ってくる本人の後ろから、心配そうな家族がぞろぞろとついてきます。

今日はどうしましたかと聞くと「実は今朝から腰が痛いみたいで」と口火を切るのは後ろの家族。「まあ1年くらい前から痛がっているんですけど、今日はいつもより歩くのが遅いような気がして。折れてませんかね、歳も歳だし、心配なので一応連れてきたんです。あと、1か月くらい前から足もちょっと痛そうで……」家族の話は止まりません。

本人に症状を聞くと、「いてえけどよ、こんなのは前からいてえんだよ」という具合。「大丈夫だから病院なんて来たかねえって言ったんだけどよ、せがれも心配すっからしょうがなく来たんだよ

家族がレントゲンを撮ってくれと言うのもあり、念のため撮ってみましたがやはり骨折はなし。よかったですねと説明すると、ほっと胸をなでおろす家族を傍目に、本人がそれみたことかと笑っている始末です。

先のケースと同様、これも非常によくあるパターンです。この場合も「価値」の核心は安心感だったということになりますが、こうしたケースでは患者本人よりも、家族にとっての意義がはるかに大きいことになります。本人は大丈夫と思っていても、家族が医療者に大丈夫と言われたくて病院に来ているのです

「安心感」に投資する意義はあるか?

病院2

さて、我々はここで、1つの大きな問題に行き当たります。

患者やその家族のニーズが「安心感」のみであったとき、そしてそれが”The goal of medicine”のいずれにも属さないものであったとき、はたして医療はその要請に応えるべきであるか、ということです。

法的にはイエスです。応召義務といって、日本の医師は患者に診療を求められた際、正当な理由がない限りこれを断ってはいけないのです。

いうまでもなく、マーケティング的にもイエスです。医療を純粋なサービス業ととらえれば、そこには適切な需給関係が成り立っています。たとえ医学的な必要性がなくても、それが夜中の3時であっても、病院の収入になる以上は文句を言わずに彼等の診療にあたるべきです(診療にあたった研修医が同僚に愚痴を言うことはありますが…)。

しかしながら、医療には一般的なサービス業とは決定的に異なる点があります。それは、サービスの価値を受ける者とその対価を負担する者がイコールではないということ。要するに、支払いの出所の一部が保険や税金であるということです。

ここに医療者目線でもない、患者目線でもない、第3の視点が存在します。我々は医療サービスに出資をしている国民として被保険者として、この問いにイエスと答えるべきかどうかを考えなければならないのです。

医療を充実させて、国民の健康を守り、上にあげたような”The goal of medicine”の達成を目指すということ。これを通じて、国民の人権を守り、また国民の幸福を追求すること。これらはまぎれもなく、憲法に定められた国家の義務です。そして、その成立を支えることは、このような国家のあり方を選択した国民にとっての義務でもあります。

しかしもっと実際的に考えたとき、医療というのは国家にとってある種の投資だということもできます。

我々は十分な医療を受けるために、毎月収入の中から保険料を支払いプールしています。また、近年ではそれとは別に、医療費の40%近く、金額にして15兆円以上が税金から支払われています。

みんなのお金でこれだけの投資をするからには、その投資収益性はきちんと評価されなければなりません。そして、この莫大な投資の費用対効果を評価するために使われる指標が、実は先の”The goal of medicine”なのです。

検査や治療など、あらゆる医療行為は「保険適応」という枠組みの中で、その投資価値を評価され、承認されています。そしてその価値基準になるのは「その検査・治療が国民の寿命を延長するか/QoLを改善するか」というただ1点です。言い方を変えれば、国民の寿命の延長とQoLの改善だけが、国家規模で必要とされる医療の「価値」なのです。やや乱暴な言い方をすれば、寿命の延長にもQoLの改善にもつながらない医療行為は、国家にとって負の投資に他ならないわけです。

ここまで踏まえた上で、我々はようやく冒頭の命題に取り組むことができます。

医療の「価値」とはいったいなんでしょうか? 我々はどこまでを医療の「価値」として認めるべきでしょうか?

最後に

誤解のないように付け加えておくと、不安だからと念のため夜中の救急外来を受診することが間違っているということでは全くありません。彼等のうちの数%は本当に重大な疾患を抱えているからです。そういう意味では、大多数の負の投資はごく一部の正しい投資を生み出すために必要不可欠であると考えることもできます。

しかしいずれにせよ、患者やその家族にとってはそんなことはどうでもいいのです。今回の話の面白さは、そもそもそうした投資収益性も、医学的な厳密さも、患者自身のユーザー体験においてはあまり重要ではない場合がという点にあると思います。ただ患者の話を聞き、不安を解消するだけのための診察も、医療が普通のサービス業であれば十分に成り立ちます。患者のニーズに応えるという意味では、そうした医療の形もあっていいのです。そして、それを大多数の国民がニーズとして持っているのであれば、それを国家として公に医療の「価値」とすることも1つの選択だといえるでしょう。

ただし我々はみな、患者でありうると同時に、常に医療に投資する出資者であることを忘れてはいけません。患者と出資者、両方の視点に立った時、我々はどこまでを是認すべきなのでしょうか。これは医学の問題でも、経済の問題でもありません。それらすべてを踏まえた上で行われる、態度決定の問題なのです。