前回は医療に「答えがない」という苦悩と、医師ならではの「視点」や「思考体系」を身につけることの難しさを綴った。

今回はまず、“医師”というプロフェッショナルの立場と、未熟な研修医としての現状の狭間で苦しんだ話を紹介する。

目次

プロフェッショナルな医師としてのプライド

医学部生は医師国家試験に受かって病院で働き始めた瞬間、周りの医療従事者、そして患者さんから“医師”として見られる。実際の診療で、多くの質問をぶつけられる。

「幼稚園の子供がノロウイルスにかかってしまったんですけど、吐いた時どう対処したらいいんですか?」

脳梗塞を発症した患者さんの家族から、「右手足の麻痺はどれくらい回復するんですか?」

神経難病でだんだん食べ物の飲み込みが悪くなってしまっている患者さんから、「私はもう一生食べることができないんですよね。」

勉強不足故にわからない質問もあれば、先のことを予測出来ないから答えるのが難しい質問もあり、あるいは状況の深刻さ故に安易に答えるわけにはいかない場合もある。

他の医療従事者からの質問も多い。

「この患者さんのCT、どこまで撮ればいいですか?」

「この患者さんは絶対安静と言われているのに、全然言うことを聞かなくてどうしたらいいですか?」

面と向かった状態で質問されると逃げ場がない。何かしらの回答を編み出さなければいけない。最初は怪しく答えたり、ごまかしたりしていたが、不安を助長することもあれば、不正確な情報を伝えてしまったこともあっただろう。特に患者さんには、“医師”というプロフェッショナルとして頼られている以上、そのようなプロフェッショナルを演じなければいけないと強く思っていた

実際にそのように演じることはすごく大切。患者さんに安心感を与える。不安を助長しない。

医師としての振る舞い

よく聞くこんな笑い話がある。

胆嚢(たんのう)を摘出する手術をするために入院している中年男性がいて、手術前日すごく不安そうにしていた。

ドクターに「わたし手術を受けるのが初めてで、明日の手術がすごく不安なんです。昨日もよく眠れなくて。」と言った。

ドクターは答えた。

「大丈夫ですよ。上手くやりますから。初めてでも緊張しなくて大丈夫です。実は私も初めてなんですよ。同じですね。」

正直がいいとは限らない。プロフェッショナルとして、しかも患者さんから自分の体や命を預けられる身として、適度なふるまいがある。かといって、全知全能の医師がいるはずもなく、まして研修医であれば未熟もいいところだ。ここのバランスが難しい

でも研修医になってから10ヶ月ほど経ってようやく、自然に“医師”の振る舞いが出来るようになってきた。

どういうことか?

自分が分からないことに関しては、はっきりと「分からないです」と答えることが出来るようになった。これは自分にとって大きな変化だった。特にプライドも高くて、「医師とはこうあるべき」といった想いの強い僕にとっては。

もちろん、「分からないです」では終わらない。その場でパソコンや参考書を使って調べることもあれば、「上の医師に聞いてきますね。」、「今度調べてまたお伝えしますね。」とその場を終えることもある。

「自分は医師だ!」とはりり、気負っている状況で、自分の至らなさを患者さんに打ち明けてしまうのは勇気のいることだった。もちろん先のドクターのようにならないような配慮はしている。

組織としての難しさと「責任の所在の曖昧化」

さて、ここからの内容が本記事のメイントピック。僕は「分からないです。」と患者さんや周りの医療従事者に言うことが出来るようになった。

手術前検査のため入院中の患者さんから「いつ退院できるんですか?まだ他に検査があるんですか?」

看護師から「この患者は今後どういう方針になるんですか?また食事を食べ始めても、誤嚥して肺炎になっちゃうだけですよ。」

※誤嚥:食べ物を飲み込む時に、誤って気管や肺に入れてしまうこと。

他の科の医師から「いつ手術をやるんですか?どうせやるなら、今やっちゃった方がいいんじゃないですか?」

これらは治療方針に関連した質問たちだ。

治療方針に関することであれば、最終的には一番上の医師が決定する。僕自身も最終的にどうなるのかわからない。特に大学病院であれば、自分・3年目の医師・7年目の医師・助教授・准教授といったように5人もの医師が、一人の患者さんを担当することも稀ではない。上になればなるほど忙しく、外来患者さんのことや手術、他の仕事で病棟にいる時間は少ない。最終的にどういう方針になるのか、その下の4人の医師には分からず、当然看護師を含めた他の医療従事者、患者さんにも分からない。

こういう時、患者さんや看護師に治療方針に関する質問をされても、「分からないです。」と答える。

でも、この「分からないです。」は危険をはらんでいる。

どんな危険か?

それは「責任放棄」の危険性だ。

 

前の田舎の病院にいたときは、研修医の自分と上の医師の2人で患者さんを受け持つことも多かった。その時にはもっともっと多くの裁量と、責任が自分に課せられていた。でも医療サービスを提供する側のレイヤーが重なれば重なるほど、複雑になれば複雑になるほど、自分が自覚している“責任”が薄くなっていく。

ああ、これが「組織の中で働く」ということなんだな

と実感した。

「責任の所在」が分割化、分散化されていき、さらに進行すれば「責任の所在」が消失してしまう。「このタスクは誰がやるはずだったの?」という問いかけに対して、皆が沈黙する。

単に医師がたくさん病院にいればいい医療が提供されるわけでもない。大規模な病院で色んな診療科、色んな職種がそろっていれば確かに高度な医療はできるが、簡単なエラーが起きやすくなったり、そこに人間味が失われたりしてしまう。

医療の本質は、医療サービスが患者さんに提供されるその瞬間に存在する。規模を大きくすれば効率が良く思えるかもしれない。診療科や職種を細分化して専門化、高度化すれば確かに先進医療が行えるかもしれない。でも医療は、そんなに簡単には上手く行かない。