医療は日々、進歩しています。

特に、がん治療の分野における進歩は目覚ましく、より効果の高い画期的な治療法が次々と開発されています。そのひとつが、新しい世代の抗がん剤といわれる「分子標的治療薬(ぶんしひょうてきちりょうやく)」です。

分子標的治療薬は2001年より日本でもがん治療に導入され、徐々に増えてきました。例えば、肺がんの患者さんに使われている「イレッサ」や、乳がんや胃がんに対して使われる「ハーセプチン」という薬をご存じのかたもいらっしゃるでしょう。

分子標的治療薬は今までの抗がん剤とどう違うのでしょうか?また、従来の治療が効かなくなったがん患者さんを救う「夢のくすり」として期待されていましたが、実際はどうなのでしょうか?

今回、腫瘍外科医の立場から、分子標的治療薬について解説します。

目次

分子標的治療薬とは?

従来の抗がん剤は、がん細胞そのものを標的としたものではなく、例えばがんの特徴である分裂をくり返して増殖している細胞を攻撃する薬でした。このため、正常な細胞(特に、分裂がさかんな骨髄の細胞など)もやっつけてしまい、副作用も多く出てしまうというデメリットがありました。

これに対して分子標的治療薬とは、がん細胞が持っている特定の分子(遺伝子やタンパク質)をターゲットとして、その部分だけに作用する薬のことです。

 

分子標的治療薬のメカニズムについて、簡単に説明します。

例えば、下の図のように、がん細胞は、増殖因子(細胞の増殖を促進する物質)が細胞の表面にあるレセプター(受容体)に結合することによって細胞増殖の信号がオンになり、増え続けていきます。分子標的治療薬(ここではレセプター抗体薬)はこのレセプターにより強く結合してふさぎ、増殖因子が近づいても結合できなくします。これにより、信号がオンになるのを防いでがん細胞の増殖を抑制します。
分子標的治療薬のメカニズム-図解
上図は、クリックまたはタップで拡大してご覧ください。

分子標的治療薬には、大きく分けて細胞のシグナル伝達(増殖などを促すため、細胞内で指令が伝わっていくシステム)を阻害するもの(肺がんに対するゲフェチニブ(イレッサ)、エルロチニブ(タルセバ)、大腸がんに対するセツキシマブ(アービタックス)やパニツムマブ(ベクティビックス)など)と、血管新生(がんに栄養を運ぶ新しい血管が作られること)を阻害する薬(ベバシズマブ(アバスチン)など)があります。

 

現在、肺がん、乳がん、大腸がん、胃がん、腎臓がん、血液がん(白血病)、肝臓がんなどの治療に分子標的治療薬が導入され、効果を上げています。おもに転移や再発をした患者さんが適応となりますが、手術後の再発予防のために使われる場合もあります。

分子標的治療薬のメリット

これまでのがん治療では、ある特定の臓器に発生したがん(たとえば大腸がん)に対しては、どの患者さんに対しても同じ抗がん剤が使われ、効くか効かないかは、実際に試してみないとわかりませんでした。このため、効果のみられなかった患者さんでは副作用に苦しむだけの意味のない治療となる可能性がありました。

 

これに対し、分子標的治療薬の場合は、がんの特定の遺伝子やタンパク質を調べることによって、効果が期待できる患者さんだけに投与することができるのです。このような患者さん一人ひとりのがんの個性にかなった医療を、がんの「個別化医療」ともいいます。

例えば乳がんの患者さんのうち、約20~30%にHER2(ハーツー)というタンパク質が異常に増えているタイプがあります。手術で切除したがんを調べ、このHER2が増えている場合だけ、トラスツズマブ(ハーセプチン)というHER2を標的とする分子標的治療薬を使用します。このトラスツズマブの導入により、乳がんの患者さんの生存期間が延長されました。

 

また、大腸がんの約60%にKRASという遺伝子の異常(遺伝子配列の変化)があることがわかっています。分子標的治療薬である抗EGFR抗体薬(セツキシマブ(アービタックス)やパニツムマブ(ベクティビックス))は、KRAS遺伝子に異常がないタイプ(KRAS野生型といいます)の患者さんだけに効果が期待でき、一方KRAS遺伝子の異常がある患者さんでは効果が期待できません。そこで、大腸がんではKRAS遺伝子の変化を調べ、異常のない人だけにこの分子標的治療薬を使っています。

 

このように、現在いろいろながんに対して分子標的治療薬を使った個別化医療が行われています。

分子標的治療薬の問題点

分子標的治療薬の効果については、従来の抗がん剤に比べて格段に効果が高いというものではありません。なかには、臨床試験において統計学的に有効であると判断されたものの、患者の生存期間にほとんど差がない薬もあるのが現状です。また、一旦は効果がみられた場合でも、次第に効果が薄れてくることもあります。したがって、「夢のくすり」といった過度の期待は禁物です。

 

分子標的治療薬は、正常の細胞も傷つける抗がん剤と違い、副作用が少ないといわれています。しかしながら、実際には従来の抗がん剤とは異なる特徴的な副作用が報告されています。

例えば、肺がんに対する分子標的治療薬のイレッサには間質性肺炎という重大な副作用があることがわかり、死亡例が相次いだことより問題となりました。また、抗EGFR抗体薬などでは、皮疹などの皮膚症状がでることがあり、ひどい場合には生活に支障を来すこともあります。

 

また、分子標的治療薬は一般的に高額であり、多くの場合医療費の負担が増えます。例えば、分子標的治療薬による治療を受けた場合、1か月の薬代が数十万円という例も珍しくありません。ただし、公的医療保険には、患者さんの負担の上限を定めている「高額療養費制度」があるため、上限額を超えて支払った分は還付される仕組みとなっています。

いずれにしても、国民全体の医療費は上昇の一途をたどっており、分子標的薬の登場も原因のひとつと考えられています。

まとめ

分子標的治療薬とは、がん細胞が持っている特定の分子(遺伝子やタンパク質)をターゲットとして、その部分だけに作用する薬のことで、理論上はがん細胞だけを狙い撃ちする治療薬です。

従来の抗がん剤に比べて治療効果が高く、また一部の分子標的治療薬は効果が望める患者さんだけに投与できるメリットがあります。

一方で、必ずしも期待通りの効果が得られないことや、特有の副作用があることも分ってきました。また、医療費が高額となるといった問題も抱えています。

今後ますます多種多様な分子標的治療薬が開発、臨床応用され、がん患者さんの治療成績が向上することが期待されています。