2014年11月1日、アメリカのオレゴン州で、末期の脳腫瘍を患った女性が尊厳死を遂げました。メディアによって伝え方が違いますが、医師に処方された薬剤を使って命を絶ったということなので、日本語では「尊厳死」よりも「安楽死」のほうが近いかもしれません。

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SNSや動画サイトを通じて発信された彼女のメッセージは大きな反響を呼びました。僕は尊厳死や安楽死に賛成の立場ですが、ネットでいろいろな人の意見を見ていると賛否両論大きく分かれているようです。

視点が違うと見え方もまったく違うようで、とりわけ宗教的な視点からは、ローマ法王庁を筆頭として批判的な意見が相次いだのが印象的でした。日常的に死にまつわる悩みと向き合い、応えるという使命をもった分野ならではの回答だと思います。

今僕の置かれている医療者という立場からの眺めもまた、少し特殊なものだと思います。僕が医療者として、ネット上のたくさんの意見を読みながら感じたのは、そもそも世の中の多くの人からは尊厳死以前に「死」そのものがよく見えていないのではないかな、ということでした。

そこで今回は、尊厳死に賛成・反対という話はさておき、医療者という立場で垣間見ることができた「死」についての生々しい話をしようと思います。

※この記事は、執筆者が研修医の時に作成した記事です。

死にたがる元気な患者さんたち

医学生時代から、「私はいつ死んだっていい」と言う患者さんたちを見てきました。

死期の迫った患者さんではありません。まだ元気で、治療すれば家に帰って元通りの生活ができるような患者さんです。元気であるにもかかわらず、死について頻繁に口にする患者さんは意外とたくさんいます。

彼等はみな、だいたい同じようなことを口にします。いわく、元気で家に帰ったってやることがない。仕事もない。年金や、場合によっては生活保護のお金を使って、社会の役にも立たず、日々意味もなく過ごしているだけ。先生、もう生きてたってしょうがないよ、病院通ったり入院して治療するのも大変だから、安楽死の方法考えてくださいよ、とこういう具合です。

もちろん、安楽死なんていう選択肢は我々にはありません。治療をせずに家に帰すという方法もないではないでしょうが、患者さん自身がよほど強く拒否しないかぎり、有効な治療をやめてしまうことはあまりありません。結局のところ、そんな悲しいこと言わずに治療頑張りましょうよ、と答えるほかありません。

死にたい患者さんと、そういう患者さんの治療のためにあくせく働く医療者。学生の頃はそういう光景を見るたびに、なんと不条理なんだろうと思っていました。そういう患者さんが生きがいを持てるような、社会的な役割を作ってあげられないかな、とか、逆に安楽死というのも悪くない方法なのでは、なんて考えたりもしていました。

マヒは死よりも怖い?

当時の僕は、彼等が本当に死にたいんだろうと思っていたわけです。ところが、それからたくさんの患者さんを見ているうちに、どうもそういうことではないらしいということが少しずつ見えてきました。

学生のころによく話を聞いていたのは、まだ死にたいと言うだけの元気がある患者さんたちでした。しかし、実際に死が目前に迫った患者さんたちの思考は、彼等とはまったく異なっていたのです。

たとえば、昨日から手足がしびれているといって、救急車で運ばれてきた70歳の男性。診察してみると、右手と右足がだらりとして動きません。脳卒中です。

カルテをさかのぼってみてみると、かなり前から糖尿病があるのに治療をしてこなかった、脳卒中ハイリスクの患者さんでした。過去には軽い脳梗塞を起こしたこともあり、入院を機に糖尿病の治療を始めたこともあったのですが、幸か不幸か脳梗塞の後遺症がまったく残らなかったため、退院後ほどなくして自ら治療をやめてしまったようです。

すぐにMRIを撮影すると新しい脳梗塞が見つかり、彼は即入院となりました。発症から時間がたっており、積極的な治療ができる時期を過ぎていたため、できることは再発予防だけでした。血液が固まりにくくなる薬や、脳を保護する薬の投与に加え、放置されていた糖尿病の治療も考えなければなりません。主治医に聞いてみると「ほんとはかなり前から、インスリン治療はじめましょうって勧めてたんだけどね」とこぼしました。

「あの人、自分はもう死んでもいいから糖尿病の治療はしないって言い張ってたんだよね。まあ、脳梗塞もこれで2回目だし、今回は説得してでも介入せざるを得ないかな。もちろん本人次第だし、それでも嫌だって言われたら無理にはできないわけだけど……」

ところが、そんな我々の不安とは裏腹に、彼は思いのほかすんなりと糖尿病治療を受け入れてくれました。

彼のように、元気な時には死んでもいいと言っていた患者さんが、症状が現れた途端に気持ちを変えるケースは決して少なくないそうです。彼等は脳梗塞を発症して初めて、死をリアルな現実として実感し、自分が患っている病気の意味に気がつくわけです。

最悪の死をイメージできるか

糖尿病のような病気は、それだけでは大した症状が出ず、病気であるという自覚が生まれにくいことがあります。にもかかわらず、要求される治療は食事制限や運動療法など、ハードルの高いものばかり。死んだほうがましなんじゃないか、という発想もでてくるわけです。その気持ち自体は、なんとなくわからなくもありません。

しかし、彼等の中には、実際に自分が死ぬということがどういうことか、うまくイメージできていない人もいるように思われます。たとえば糖尿病の患者さんは、彼等が死ぬまでの間に生じうる合併症について、あまり現実のものとして想像していません。失明したり、脳梗塞になって手足が動かなくなったり、心筋梗塞になって身動きもできないほど苦しくなったりするという未来は、彼等の頭の中にはありません。

重篤な合併症を生じたとしても、そのまますんなり死ねるとは限りません。幸か不幸か生きながらえてしまった場合、後遺症として手足の麻痺や息苦しさを抱え、長い時間をかけてじわじわと弱っていくわけです。この最悪の可能性も、普通はあまり見えていません。死ぬときはぽっくり逝けたらいいな、という希望があるだけです。

要するに、彼等は死について真剣に考えていたわけではなかったのです。あえて厳しい言い方をすれば、むしろそれは思考停止に近かったのではないかと思います。死について口にすることで、彼等は目先のしんどい治療について考えることをやめていたような気がします。

もしかしたら、本人なりに真剣に死ぬことを考えていたかもしれません。ただし、死というものに関する知識と経験が乏しいがために、死を正確にイメージできていなかったのはたしかです。とかく患者さんは死について楽観的なイメージを抱きがちですが、希望通りにぽっくり逝けるとはかぎりません。そして、最悪の死をイメージすることがほんとうにできたとき、彼等が同じように「死にたい」という判断をするとは限らないように思われます。

誤解のないように書いておきますが、べつに彼等を非難しているわけではありません。医療職でもなければ、死に接する機会なんてほとんどありません。うまくイメージできないのが普通です。

我々医療者は、病気が悪くなるリスクや最悪の可能性について、つねづね患者さんに説明しています。しかしながら、上のような事例を振り返ってみるに、悪い話は我々が考える以上に伝わりにくいものなのではないか、という反省もあります。

業界に入ってまだ日の浅い自分の立場からは、こういうギャップがかえって見えやすいのではないかと思います。普段死に触れることのない方々に、少しでもイメージを広げてもらえたらという思いでこの記事を書いています。