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神経難病「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」は、10万人に約1.5~2人の割合で発症する希少疾患の一つです(難病情報センターより)。脳の命令を筋肉へと伝える運動神経細胞(運動ニューロン)が壊れてしまうこの病気が進行すると、患者さんは体を動かせなくなっていきます。そして話すことだけでなく、自力で呼吸することもできなくなっていきます。治療薬は開発されていません。

体の動きは制限されますが、意識ははっきりしています。人工呼吸器を装着すれば息ができます。また介助者のサポートや文字入力装置といったコミュニケーション機器を使えば、誰とでも会話することができます。そして周囲の協力があれば、全国どこへでも行くことができます。

ALS患者さんの中には、自身の経験を他の患者さんに伝えるべく、精力的に活動している方々がいます。東京都在住の酒井ひとみさん(38)もその中の一人です。今回は酒井さんが日々の活動に込める思いについて紹介していきます。

「同じように困っている人がいたらどこへでも行ってあげたい」

ALS患者の酒井ひとみさん

10年前にALSを発症した酒井ひとみさん。自身の経験を伝えるべく、精力的な活動に取り組んでいる=東京都の自宅にて撮影

酒井さんは旦那さん、高校1年生の娘さん、中学3年生の息子さんとの4人家族。10年前にALSを発症し、現在は人工呼吸器を装着しながら家族やヘルパーさんの介助を受け生活しています。

妻として、母として日々暮らす中、ALSの患者・家族を支援する団体「日本ALS協会」理事として、協会の東京都支部の役員として、患者の立場から活動しています。

そして協会の活動だけでなく、個人的にALSの患者・家族のサポートに取り組んでいます。患者さんたちの相談に対して、相手の要望があれば極力直接会って力を貸しています。

相談は自身の「フェイスブック」を通じて寄せられ、やり取りは視線入力装置という視線で文字を打ち込む機器を使って行っています。その内容は「患者本人が人工呼吸器を付けるかどうか悩んでいる」という生き方を左右するものから「車椅子に乗っているときどうやって排泄しているか」といった生活で直面する悩みなど様々です。

直接会いに行く範囲は、都内近郊に限らず遠方の秋田県の時もあり、今年の秋には沖縄県に行く予定が控えています。そんな距離を問わない個人的な活動は「全て自費」。同行してもらうヘルパーさんの旅費代も持つため、金銭的な負担は決して少なくありません。

なぜ自己負担してまで取り組むのか―。酒井さんは「個人的に同じように困っている人がいたらどこへでも行ってあげたいんです。直接会うことで『こんなこともできるんだ』と希望を持つ患者さんが多いという実感があります」と思いを明かしてくれました。

きっかけは他の患者さんとの出会い

ヘルパーさんとコミュニケーションを取る酒井ひとみさん

ヘルパーさんとコミュニケーションを取る酒井さん。声は出なくてもそこには「会話」がある=東京都の自宅にて撮影

酒井さん自身、積極的な活動の原点は直接他の患者さんと出会ったことでした。4年ほど前、人工呼吸器を導入するための気管切開手術を控えていました。この手術は生きていくために必要な手術ですが、呼吸筋が衰えた状態で気管を切開すると、術後は声を出せなくなってしまいます。

声を失った後のコミュニケーションに不安を覚える中、当時お世話になっていた作業療法士さんを通じて患者の岡部宏生さん(現日本ALS協会会長)と出会いました。そのときに口文字(介助者が患者さんの口の形から言葉を読み取っていく方法)の存在を教えてもらったことで、手術への悩みは晴れていきました。

そして岡部さんは手術後に電車に乗ってお見舞いに来てくれました。その一連の出来事は直接相手と会ってコミュニケーションする大切さを認識させ、「自分もできるだけ早い段階で患者さんたちの疑問に答えたい」との思いを強くさせたのです。

伝えたい「普通の人と変わらないこと」

「患者さんが少ない疾患だから特に(相手と会うことが大切だと)思います」。積極的な活動は酒井さんにとって大きな存在であり、生きていくモチベーションになっています。

大切な機会だからこそ、会うときには患者さんの心の状態にも気を配ります。例えば最近あった病気の症状などへの気持ちの整理がつかず、気持ちが荒み気味な患者さんには「しっかりと『分かります』と共感を示しながら、考えが間違っていると感じたときはソフトに指摘します」と相手を思いやった対応に努めます。

一方で相手が病気を受け入れられていない状態では、コミュニケーションが取れていても病気が進行した自分と会うと「ショックを与えてしまうだけで、解決にはならない」と感じています。また生きる希望を伝えたいと思う反面、「自分がいきなり今のような生活を送れるようになったわけではないことを話した方がいいのでは」という悩みも抱えています。

相手への配慮、そして悩みを抱えながら、活動を通して患者さんだけでなく多くの人に知ってほしいことがあります。それは「ALSの患者はしっかりとした考えを持っていて、伝えることさえできれば普通の人と何ら変わらない」ことです。

「心が通じ合っている人には、顔の動きが悪くなった現在でも口文字を通して『今怒っている』とか『今笑っているとか』とが分かるみたいなんです」。日々のコミュニケーションで感じるありのままを、酒井さんは今後も伝えていくために、多くの人との出会いを続けていきます。

取材後記

初めてALSの患者さんを取材して、最初はどういう風にやり取りが進むのか不安でした。実際に取材が始まると、こちらの質問に対して酒井さんが視線入力装置を使って文字を打ち込みます。その文字がディスプレイに表示され、書き上げると文章は音声で読み上げられます。そこには自分が日頃多くの人と交わす「会話」がありました。

酒井さんが文字を打ち込む時間は、短くはありません。それでもこちらの言葉に耳を傾けて、入力ミスがあったらその都度やり直して答えてくれるその時間は、私にとって相手の思いを汲み取る貴重な時間でした。

もし読者の方がALSなどで言葉を発せない患者さんとやり取りすることがあったとき、ぜひ相手の思いに耳を傾けてください。そして患者さんも、ぜひ声に縛られない言葉を私たちに掛けてみてください。

※酒井さんはALSを発症したときの様子、告知された瞬間の思いなどを綴ったエッセイ「私の名前は酒井ひとみです―ALSと生きる―」漫画「宇宙兄弟」オフィシャルウェブサイトで連載中です。ぜひご覧ください。

また、酒井さんは宇宙兄弟をきっかけに始まったALSの啓発及び治療薬の開発資金を集めるチャリティプロジェクト「せりか基金」にもコメントを寄せています。ALSをいつか治る病気とするために、関心のある方はご協力ください。

※記事内容は2017年8月9日時点の情報です。